国立大学法人 東京海洋大学 海洋工学部
重要文化財 明治丸
1. 明治丸の誕生
 明治元年(1868)、明治新政府は洋式灯台建設を開始し、灯台位置の測量、資材の運搬、保守管理に使用する灯台船が必要となったが、日本には未だに造船能力がなかったので、中古船を購入して使用していた。その後灯台の数が増加するに従い、新鋭船が必要となり英国に発注することになった。その建造伺いには業務量の増加と経済性があげられているが、あながちそればかりであったとは思われない。推察の域を出ないが、当時の工部卿伊藤博文はかつて英国留学中同国の船員として働きながら勉強したと伝えられるから、日本の発展のもとは海運にありその海運の振興のために、造船、造機ならびに船員教育に利用できる新鋭船の建造を考えたのではなかろうか。もうひとつの理由として、当時燈台船として働いていたテーボール号(S.S.Thabor)は、フランスの王妃がスエズ運河開通式の際乗船されていた、「華麗なる遊乗船」であったことから、ロイヤルヨット(Royal yacht)としての利用も考えたのではないかと思われる。

 こうして明治6年(1873)、英国グラスゴー(Glasgow)のネピア(Napier)造船所に発注された明治丸は、明治7年(1874)竣工して翌8年(1875)2月に横浜に回航された。回航時の乗組員は船長ロバート・ピーターズ(Robert H.Peters)、機関長ジョン・キャンベル(Jhon Cambell)以下全員が外国人で合計53人であったが、横浜着港後船長以下の職員はそのまま残り、水夫、火夫等の部員はすべて日本人に交代している。その後、船長以下乗組員全員が日本人となったのは、明治26年(1893)からであった。
2. 明治丸の活躍
 明治丸は、当時としては優秀船であったので、通常の業務の外、日本近代史に残っている多くの事件に関わっている。
 日本に回航された明治8年(1875)小笠原諸島の領有問題が生じ、11月21日、日本政府調査団を乗せて横浜を出港し、24日父島に入港した。新造船で船足が速かったので22日に横浜を出港した英国軍カーリュー号(H.M.S Curlew)より2日早く着いて調査を進めることが出来たから、小笠原諸島領有の基礎が固まったと言われている。

 明治9年(1876)1月には、日朝修好条規締結を促す示威行動を支援するため、日本艦船の基地であった対馬への石炭急送の任務についている。同年、明治天皇は東北・北海道御巡幸に際し、7月16日青森から函館まで明治丸に御乗船になった。その夜函館港では在港艦船が燈火を点じて巡航を奉祝し「海陸に点ずる紅燈は水際に映じて、各船より打揚る煙花は星宿の彩を奪ふ」という盛況で、その光景を錦絵「函館港烟火天覧図」が今に伝えている。
 18日天皇は再び明治丸に御乗船になって函館を出港し帰郷の途につかれ、7月20日横浜港に帰着された。更にこの年11月5日軍艦雲揚が紀州大島沖で名古屋丸と衝突、座礁沈没した時、救援に急航して救助者を乗せ8日横浜に帰港している。
 明治10年(1877)西南の役勃発に際し、有栖川宮熾仁親王を勅使として鹿児島に派遣することが決まり、明治丸に御乗船になる予定で、神戸港に待機していたが、既に鹿児島勢の先鋒が熊本県下に侵入したという電報が入り、勅使の派遣は中止となった。
 政府は明治12年(1879)、清国にも服属関係を続けていた琉球藩の強行合併に踏み切り、軍隊による接収が終わった那覇港に、明治丸は勅使を乗せて4月12日に入港し、4月27日に中城王子を乗せて出港している。
 次いで明治丸の記録が現れるのは、明治15年(1882)の朝鮮壬午事変である。同年7月京城で反日暴動が起こり、日本公使館が焼き討ちされ日本人数名が殺害されるという事件が発生した。日本政府は強行態度でこれに臨むことを決め、京城へ帰任する花房公使は高島陸軍少将と共に明治丸に乗船して、軍艦4隻を伴って馬関(下関)を出港し8月12日仁川に入港している。この後明治丸は一旦馬関に帰り、公使館再築資材を積載して再び仁川に赴き、東京に帰る花房公使及び朝鮮国王からの修書謝罪特使一行を乗せて、9月28日横浜港に帰着している。
 その後、明治20年(1887)には、仙台出身の横尾東作が時の逓信大臣榎本武揚に提出した建白書がもとで、硫黄島探検航海に赴いている。時の東京府知事高崎五六も同行した。また東京府に鳥島拝借と同島への定期航路の願書を出していた玉置半右衛門も、石炭料25円を収めて便乗が許された。11月1日横浜を出港し、5日鳥島に至り玉置等を上陸させ、10日、硫黄島に到着している。しかし、調査の結果硫黄列島は「殖民の目的なき無用の島地」と断定せざるを得ず、一同失望したと記録されている。横尾等はさらに南洋諸島に向け航海を試みるつもりであったらしいが、同乗の官員と船長トーマスとの間に感情のもつれもあって、石炭欠乏を理由に南下を拒否され硫黄列島の調査のみ帰港の途についた。この途中鳥島に帰港しようとしたが、潮流が急で接近困難であったので、そのまま横浜に帰っている。この後、玉置等を島に置き去りにしたという非難が高まり、東京府は救助費を出して日本郵船芳野丸を鳥島に急派している。
3. 明治丸の晩年
 明治20年(1887)以後は、本来の業務である燈台巡視船としての活動を続け、或いは燈台位置の測量に、或いは建設資材の運搬に、又は海底電線の敷設等に活躍している。そして明治29年(1896)には、東北海岸及び西南海岸航路標識視察並びに同地方に於ける予定標識建造位置測量、その他川崎、神奈川、本牧、北中根の各浮標交換等に従事しているが、これが現役最後の航海となったのである。
 この頃になると、燈台の数も増え業務も膨張して来たので、明治丸は「積量少なく多数燈台の用品を運搬するに耐えず」という状態になり、逓信省は海軍省から新発電丸(2783トン)を譲り受けて代船とし、明治29年(1896)9月明治丸は商船学校へ譲渡された。同31年、3檣シップ型帆船に改装され、以後係留練習帆船となった。
 それから、第二次大戦終末(1945)まで多くの海の児の道場として毎朝の甲板掃除に、運用実習の授業にその心身の研磨に当たり、卒業生から心の故郷として慕われていた。今や国の重要文化財として復元され、華々我々の前にその麗容を現したことを祝福したい。
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