国立大学法人 東京海洋大学 海洋工学部
重要文化財 明治丸
 
1. 明治丸の復元
 明治政府は明治元年(1868)から洋式燈台の建設を計画し、その測量、建設、資材運搬、巡視等の業務のため、明治2年(1869)に燈明丸を、同3年(1870)にテーボール号を購入して当たらせた。しかし燈台数の増加によって業務が輻輳し、かつ2船とも中古で修理費も嵩むことから、新造船明治丸を英国に発注した。
 就役後の明治丸は、明治8年(1875)3月5日の軍艦清輝進水式に行幸された明治天皇が御乗船になったのをはじめ、当時の歴史に残る多くの事件に関わると共に、本務として明治10年(1877)7月から同29年(1896)6月までの20年間にわたって、燈台巡視の業務に当たった。その間最初の修理は明治25年(1892)に行われ、その内容は従来のエン管円缶を当時最新の細谷式水管缶取り替えると同時に、前部デッキハウス(Deckhouse)上に操舵室を設け、これまでの操舵室を海図室としたものであった。

 明治29年(1896)9月、明治丸は本学の全身である商船学校に譲渡され、翌年正式に移管された。そして明治31年(1898)、技業訓練のためこれまでの2檣トップスル・スクーナ(Topsail Schooner)型の帆走を3檣シップ(Ship)に改装した。このために中央デッキハウスの後方部分を撤去してメイン・マスト(Main mast)を立て、ミズン・マスト(Mizzen mast)は後部デッキハウスの後端を縮めてその後に後退させると共に、各マストのヤード(Yard)を5本づつとした。また後部デッキハウスの上に手摺りを取り付けてブリッジ(Bridge)とする等、外観形態を統一した。
 大正6年(1917)の台風によって折れたバウスプリット(Bowspirit)は、それまで上甲板上に取り付けられていたものを、上甲板の下から斜上方に突き出す形に修理された。さらに大正8年(1919)には煙突が撤去され、昭和2年(1927)には主機関が解体撤去され、同時に主甲板の船室も船尾サロン(Salon)部を残してすべて撤去し、機関室、缶室の囲壁を取り除いて甲板とし、広い技業練習場を設けた。

 その後昭和12年(1937)、ミズン・マストのヤードが腐朽し、これを降ろしたので変形パーク(Bark)型となったが、昭和20年(1945)進駐軍に接収されるまでの約50年間シップ(Ship)型の係留練習船として海の児を育んで来た功績を賛える意義が認められて、明治31年(1898)当時の姿に復旧、整備するという基本方針が立てられた。
2. 基本方針
復元に当っての主な事項は次のようであった。
1.上甲板および外観を次のように復旧整備する。
ミズン・マストにヤードを復してシップ型とする。
バウスプリット、ジブブーム(Jibboom)の角度を復旧する。
鋼製デッキハウスを木製に復旧する。また前部デッキハウスの船長室を階段室に改め、その後方の通風筒を撤去して缶室上部を復旧し、両翼のブリッジと便所および前方上部の操舵室、並びに後方の日用水槽と4本の通風筒を復旧すると共に、後部デッキハウスのブリッジを整える。
上甲板の各天窓を復旧整備する。
揚錨機前方の通風筒を撤去して後方に船員昇降口を復し、その両舷に2連式便所と前面2本の通風筒を復旧する。
前部倉口の長さを約2.2米に縮小する。
揚錨機後方のキャプスタン(Capstan)を同機の前方約1.25米の位置に、又後部倉口前のキャプスタンを約4.4米前方の位置に、夫れ夫れ移動する。
前部天窓の両舷にボラード(Bollard)、フェアリーダ(Fairleader)を復旧する。
上甲板の樹脂系モルタルを撤去して、木甲板の型式に整える。
ボート・デビット(Boatdavit)を両舷各3組に復旧し、取付型式をスタンド型ソケットに改める。
左舷前方のカ−ゴ・ポート(Cargoport)の木製片引戸を鉄製上・下開扉に改め、後方の出入口を廃して、同形のカーゴ・ポートに復旧する。
角形舷窓に波除蓋を復旧する。
船名人り船首飾りと船尾飾りを復旧する。

2.主甲板を次のように復旧整備する。
サロン、船室および階段室の合板張天井を一連の額縁付天井に復旧する。
船室の各間仕切りおよび出入口を旧位置に復旧する。
船室のベッド、ソファ、およびサロン前面の飾り棚並に中央部の食卓、椅子を夫れ夫れ復旧整備する。
御座所の虐室と浴室の間の外板沿いに便所を復旧する。
配膳室に配膳台と流しを復旧する。
技業練習場の前方コンクリート床と、後方便所を撤去し、後部倉口前に機関室囲壁を、中央部に缶室囲壁を、夫れ夫れ復旧すると共に、船腹の合板内張りを横羽目板張りに改める。

3.船倉に前部船倉、前部石炭庫、缶室、後部石炭庫、機関室、後部船倉の各室隔壁を復旧する。

 この方針は昭和55年(1980)から3年間にわたる、調査・保存修理工事によって判明した変遷と改装の経過から立てられたものであった。更に基盤整備工事として明治丸全体が乗るように7基の船台を新設し、各船台の問(8.5米乃至10米)は外板の補強熔接によって支えることにした。この際、計測された船体の傾斜(上甲板中央部で左舷側に約13糎)は修正され、船首部と船尾部の稔れ(上甲板で約9糎)は修正が試みられたが不成功に終わっている。外板の補強熔接は、古い鉄材と新しい鉄材との熔接であるため特に注意が払われ、その組成を調査して、熔接棒も特別に選ばれたものが用いられ、その量も通常より約3倍も多く使用されている。
 昭和58年(1983)から復元工事が進められたが、サロン各室の囲壁の塗装には、金泥(きんでい)塗り(ぬり)、玉杢(たまもく)塗り(ぬり)、柾目(まさめ)塗り(ぬり)等が用いられており、既に途絶えた技術もあって、そのための研修を行うなど非常な苦心が重ねられた。御座所の板絵は進駐軍に接収された時塗られたペンキを除去して、塗装の割れ目や浮き上がり部分にアクリル系薬液を浸透させて固化した。絵の損傷は大きかったが、補筆等は行わずそのまま保存されることになった。其の他サロンの鏡および時計付き飾り棚、船首、船尾の飾り、上甲板ハウス等も、特に入念に復元されている。
 昭和63年(1988)1月、復元工事は終了したが、今後の維持・管理の要点は、塗装の剥落、雨水の浸透による鉄部および木部の腐朽を防ぐことであり、そのために周期的な修復を行うことは勿論であるが、特に船底部についてはなるべく早い機会に掘り起し、外舷を現すドライドック(Dry dock)方式に改めることが望ましく、またそれが可能なように既に船台方式の保存工事が施されている。
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